カンボジア旅行知恵袋

カンボジア旅行に行く前にぜひ訪れていただきたいカンボジア旅行総合情報サイトです。大使館、ビザなどカンボジア旅行の基本情報から、アンコールワットなどカンボジア現地最新情報までお伝えします。

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カンボジアはインド文化の受容

インド文化は、東南アジア一帯に大きな影響をもたらしたことは周知の事実ですが、カンボジア(クメール)は、紀元前後からインド文化の影響を受けた港市国家として発展し、インドシナ半島南部に栄えました。

海のシルクロード上の貿易上の中継地点にあたったことから、インド、中国、そしてローマ帝国とも交流があったといいます。

モンスーン(季節風)を利用した貿易船によって、インドは紀元前後から、現在のカンボジアの地を訪れ、土着の文化にインド的世界観を浸透させました。そしてこの文化基盤が、アンコール時代の繁栄の基礎となるのです。


●ラーマーヤナとマハーバーラタ
インドから伝わった文化のなかでも、カンボジアの、特に民衆に愛されたのは、インドの長編叙事詩「ラーマーヤナ」と「マハーバーラタ」です。

このふたつの冒険と闘争の物語は、タイにおいても、インドネシアにおいても民話などを取り入れながら、それぞれの地域版を生み出していきました。

カンボジアにおいても同様で、カンボジアの農村で独自の物語として展開することになります。カンボジアの人たちは、この物語をもとに影絵劇「スパエク」をつくり、民話なども取り混ぜていったのです。

カンボジア版の「ラーマーヤナ」物語として、それをベースに「リムケー」が知られています。


●ペッサンタラジャータカ

「リムケー」が「ラーマーヤナ」のカンボジア版であるように、カンボジアには他にも外来の文化を自国版に置き換えたものがあります。それが「ペッサンタラジャータカ」です。釈迦誕生以前の前世時代の物語である「ジャータカ」(本生譚)の一部をカンボジア版に置き換えたものです。


どうでしょうか、カンボジアはインドからの影響を受け、その文化を発展させていったことがお分かりになったと思います
一度ご覧になることをおすすめします。
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  1. カンボジアの歴史

カンボジア人と日本人との交流

カンボジアには、17世紀初めごろからプノンペンやピニャールに日本人町が形成されるなど、日本とは交流がありました。

最盛期には、数百人の日本人がこの地に居住していたといわれています。朱印船貿易によるものでしたが、日本の鎖国以後、交流はとだえてしまい、日本人町も消滅してしまいました。

また、今では、カンボジアの観光のメインとまで言われている、アンコール遺跡群ですが、密林のジャングルのなかから再発見されたのは、約100年前のことです。

しかし、実は、江戸時代の初めに日本の武士がこの場所を訪れていたことがわかりました。ただ残念なことに遺跡に残された落書きから明らかになっています。遺跡に落書きなどイタリアの遺跡に落書きする学生の祖先?

当時、日本人はアンコール・ワットを祇園精舎の遺跡と勘違いしていたようです。コーサラ国にあったと伝わる歴史的祇園精舎は、実際には今のインドのウッタンプラデシュ州にあったとされ、現在は整備されて観光地となっています。

ところが江戸初期、加藤清正の家臣の子が、先祖の菩提を弔うためにこのアンコール・ワットに仏像を奉納したというのです・・・そのことが落書きに書かれていたのです。

祇園精舎というのは、釈尊が説法した僧院です。1632年にアンコール・ワットを訪れた、森本右近太夫一房は、アンコール・ワットの大寺院を見て、その壮大さに圧倒されてしまったのかもしれません。

祇園精舎に間違いがない!と勘違いして参拝し、仏像を奉納しました。そしてあろうことか、墨で壁に落書きを残したのです。

何百年後かに、まさかそんなことで有名になろうとは森本右近太夫一房さんも創造できなかったでしょうね♪

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  1. カンボジアの歴史

カンボジアの歴史、そのアンコール王朝の隆盛と衰退

カンボジア旅行する上で、知っておききたいことはその国の歴史です。簡単ですが説明しますと・・・・。

アンコール王朝(クメール王朝)は、現在のカンボジア人(クメール人)が5、6世紀から版図を拡大し、9世紀にヤショーバルマン一世が巨大な都城、ヤショーダラプラ(ヤショーバルマン王の都城)を建設したことから、ますます栄えていきます。

現在のアンコール遺跡群は、ヤショーバルマン一世の建築から約550年間にわたり建築され続けてきた、都城(アンコール・トム)であり、11世紀に建設された、大寺院(アンコール・ワット)なのです。


アンコール王朝の最盛期

アンコール王朝は一時期、インドシナ半島に伸張してきた近隣勢力によって占領されてしまったこともありましたが、すぐに回復し、ジャヤバルマン七世の統治下で、空前の繁栄をします。

その領域は、インドシナ半島の大部分を占めるほどになったのです。王は道路網を整備し、街道には121箇所の宿泊所を設置したといいます。さらに国内には102箇所に病院が建てられました。


アンコール王朝の衰退

そしてジャヤバルマン七世の統治下で最隆盛を極めたアンコール王朝でしたが、ジャヤバルマン七世の死後、その国力は急激に衰退します。

15世紀(1432年)には、シャム(現在のタイ)のアユタヤ朝によって攻略されました。
アンコール王都は陥落しました。その後、もともとプノンバケンの小丘にあった都は、スレイサントール、プノンペン、ロベック、ウドンへと点々とすることになります。

そして西のシャム(タイの勢力・・・アユタヤ朝、バンコク朝)、東のベトナム(グエン朝)に領土を侵食されながら、近代へと至ったのです。


カンボジアの歴史を調べることによって、タイやベトナムのことも勉強することになります。そして、次回タイやベトナムを旅行するときに役立つ知識となるのです。

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カンボジアの今、

カンボジアと聞いてみなさんはどんなイメージを持ちますか?

カンボジアと言えば、難民、貧困、内戦、飢餓、そして地雷・・・。カンボジアという言葉が喚起するイメージは、暗いものばかりかもしれませんね。

ようやく戦火が収まったとはいえ、20年間近くこの国を舞台に繰り広げられていた戦争は、今もなお、あまりも痛々しい傷跡を残しています。

市場経済の導入は、カンボジアの人びとにひどい格差をもたらしました。持つものと持たないものの違いは、この国においては私たちの想像を絶するほどです。平和に慣れ切ったわたしたち日本人にはどうしても理解できないと思います。

地雷の撤去が必死で進められているにもかかわらず、今もなお、ジャングルには数多くの地雷が残ったままです。その犠牲者の多くは、子どもたちです。地雷を知らせる文字を読めないために、危険区域に入ってしまうからです。祖国を離れた、または離れざるを得なかった人びとは数知れません。

これらはすべて現実です。しかし、カンボジアは今、元気を取り戻しつつあります。悲しいことですが、カンボジアではポル・ポト時代に男たちがたくさん殺されました。そのため現在のカンボジアには、女性と子どもたちの姿ばかりです。それでも、働き手を失ったこの国で女性たちはたくましく一家を支え、国を支えています。路地には、子どもたちの屈託のない笑顔が溢れています。

稲作を中心とした農業がこの国の産業の中心です。5月の雨季の開始と共に、田植えが始まります。11月頃には、黄金の稲穂が頭を垂れ、収穫を迎えます。雨季といっても、猛烈なスコールが1時間ほど襲ってくる程度です! 

今、まさに息を吹き返そうとしているこの時期のカンボジアを訪れ、その活力にさらされることで、ひょっとしたら私たちが忘れてしまっていたものを得られるかもしれません。

カンボジアに行かれた方が多く口にする言葉、それが・・・・
「なんか懐かしくて、今の日本が忘れてしまった何かが残っているね」と。

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カンボジアの歴史

海外の、特に文化遺跡を訪れるときには、その国の歴史を知っておくと、旅が断然楽しく、興味深いものになりますっといったことはわたしが何度もお伝えしていることです♪
となるはずです。

アンコール王朝(=クメール王朝)の台頭とアンコール大遺跡群

5世紀以前、現在のカンボジアは、メコン川中流域、南ラオスのチャムパーサック地方を故郷とし、後にインドシナ半島を南下しながら、クメール真臘国として発展していきました。

紀元前後から、インド文化の影響を受け、港市国家としてインドシナ半島南部に栄えました。外港のオケオは、海のシルクロードの貿易中継点にあたり、インド、中国、そしてローマ帝国とも交流があったといわれています。

その後、5、6世紀頃から、クメール真臘国は着実に版図を拡大し、7世紀前半には現在のカンボジアの領土を範囲とするまでになりました。一時期、国内分裂の危機を迎えながらも、9世紀、再統一されました。

9世紀に即位したヤショーバルマン一世はアンコールの地を王都と定め、小丘プノンバケンを中心とした4キロ四方の大環濠都城を建造したのです。

以後、都は、ヤショーダラプラと呼ばれるようになりました。これは「ヤショーバルマン王の都城」を意味する言葉です。その後約550年にわたり、都城と寺院の建設は続いていくことになりました。それらが、今日まで残る、アンコール・トム(都城)と、11世紀にスールヤバルマン二世によって建立された大寺院、アンコール・ワット(寺院)をはじめとするアンコール大遺跡群です。

こんな内容を知った後で、アンコール・ワットを眺めたら感慨深くなる!!
と思いませんか?

ぜひ、もっともっと勉強してくださいね♪

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